【紅の豚考察】ポルコはなぜ豚なのか? ――戦争で“人間をやめた男”と、宮崎駿監督が映した社会風刺を読み解く――

愛機サボイア S‑21 を操る空の賞金稼ぎ、ポルコ・ロッソ。彼が豚の姿で登場する衝撃は、映画『紅の豚』(1992)の最大の謎です。本記事では、

物語内の“呪い”としての理由

作品外の“社会風刺”としての意味

という二つのレイヤーを重ねながら、「ポルコはなぜ豚なのか?」を掘り下げます。

 

1.戦争と罪悪感──“人間をやめた”男の呪い

第一次世界大戦の激戦を生き延びたマルコ・パゴット(ポルコの本名)は、雲の上で戦友たちが白い光に包まれ昇天するシーンを目撃します。仲間を救えなかった罪悪感と、生き残った自分への嫌悪――これらが「自分は人間の資格がない」という想いとなり、豚の姿という呪いに結実したと解釈できます。

 

 

「飛ばない豚はただの豚だ」

 

 

このセルフツッコミは、彼が“豚”であることを受け入れつつ、空を飛ぶ行為だけに自らの存在価値を見出している証です。豚は彼の自己罰であり、罪を背負い続ける証人でもあります。

 

2.男の虚栄と国家への風刺──“社会を映す鏡”としての豚

1920年代のイタリアは不況とファシズム台頭の時代。映画の中では、

  • 空賊を退治して英雄扱いされるカーチス

  • 観客席で賭けに熱狂する大衆

  • 利権で結び付くギャングと軍部

といった欲望と虚栄が赤裸々に描かれます。宮崎駿監督は、人間の醜さを揶揄する際に“豚”というアイコンを用いることが多く、ポルコの姿は「人間と豚は紙一重」という社会風刺の象徴でもあります。

 

Blu-ray紅の豚』はAmazonのブルーレイ・キッズ/ファミリー部門で19位(2025年5月時点)と今なお高い人気を誇ります。映画を観直すと、ポルコ=豚が周囲の“人間的醜悪さ”を反射する鏡になっていることに気づくでしょう。

 

 

3.フィオとジーナが照らす“人間性への回帰”

3‑1 フィオとの夜

工房で徹夜改修をする夜、フィオはポルコの過去を静かに聞き、「あなたは本当は優しい人です」と語ります。ランタンの明かりに照らされた横顔は、不意に“人間”のように見えます。ここで呪いは揺らぎ始めます。

 

3‑2 ジーナの歌声

ホテル・アドリアーノの庭で、ジーナが「好きな人が気まぐれを捨てて戻るまで歌う」と独白します。ジーナの一途な想いは、ポルコの心に残った“人としての誇り”を呼び覚ます鍵です。

 

こうして物語は、「豚のまま飛ぶのか、人間に戻るのか」というテーマへ収束していきます。

 

 

 

4.クライマックスで揺れる“素顔”

カーチスとの決闘の終盤、激戦でボロボロになった二人が海面へ沈む寸前、ポルコの顔はカーチスにのみ人間として映ります。観客には明示されませんが、呪いが解けかけた瞬間であると読み取れます。生と死、豚と人間――境界線がぼやける印象的な場面です。

 

5.エンディングの余白──豚のままか、人間か

ラストカットで、ジーナが庭の真紅の飛行艇を見上げる視線の先に誰がいるかは示されません。

 

 

豚のまま飛び去ったと読むなら、ポルコは「罪と世界の醜さを背負いながら飛び続ける強さ」を選んだのでしょう。

 

人間に戻ったと読むなら、彼はフィオとジーナの愛情を受け入れ、“赦(ゆる)し”を得たのかもしれません。

 

宮崎監督は結論を提示せず、観る者に「人間とは何か」を投げかけて物語を閉じます。

 

 

 

6.おわりに

ポルコが豚である理由は、

  • 自己罰としての呪い
  • 社会風刺としての鏡

という二重構造で描かれています。そしてフィオとジーナの愛情が“赦し”の光を与え、観る者に「あなたならどう生きるか?」を問いかけます。

この記事が『紅の豚』をより深く味わう手助けになり、上記グッズで体験がさらに豊かになれば幸いです。